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心に愛を唇に祈りを

信仰について

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信仰についての「主ご自身を」のリンクを再掲しました。 http://wp.me/p2RaYr-1
        つまずくことなく

引用句集

あなたは少々信仰の倦怠感を経験しているのかもしれません。しかし、それはあなたに限ったことではありません。誰もが祈りのスランプを経験するものです! 時として、信仰が徐々に目減りしていく場合もあります。けれども、大抵の場合、祈りの生活の喪失の元をたどってみると、祈りが答えられなかったことが原因であることが多いのです。落胆による死です。自分が望んでいるような方法やタイミングで神が答えられない時、あなたならどうするでしょうか? 言っておきますが、これだけはしないで下さい。祈るのをやめることだけは! どんな時にも、祈るのをやめたり、あきらめてしまうには早すぎます。
[私の友人の何人かは]一つの約束のおかげで、最もつらい時期やひどい失望感を乗り越えることができました。それはルカ7:23です。「わたしにつまずかない者は、さいわいである。」
これが、この言葉の背景です。
イエスはここで、次から次へと奇跡を起こされています。病をいやし、悪霊を追い出し、目の不自由な人を見えるようにするなどです。しかし、バプテスマのヨハネはそのような奇跡の電車に乗り遅れてしまい、まるでイエスが他の皆を救われているのに、獄中にいる最も忠実な信徒だけは救われていないように見えます。それに何といっても、ヨハネはイエスのいとこなのですから。イエスはヨハネが首を切られる前に、救出計画を企てて彼を獄から救い出すこともできたでしょうし、実際にそうすべきであったように思われますが、そうする代わりにイエスは[ヨハネの]弟子たちを通じて、彼に伝言を届けさせました。イエスは弟子たちに、自分が起こしている色々な奇跡のことをヨハネに告げ、彼にこう伝えてほしいと頼まれました。「わたしにつまずかない者は、さいわいである」と。
神が他の皆やその兄弟に奇跡を起こされているのに、自分だけ仲間はずれにされているように感じたことはありますか? 神が他の皆との約束は守られているのに、自分は無視されているように思われたことが? おそらくはバプテスマのヨハネも、そのように感じたのではないでしょうか。神が自分以外の皆の祈りに答えられているように見える時、あなたならどうしますか?
以下は私の友人の言葉です。彼もかなり、祈りが答えられないという経験を何度も通ってきました。「私たちは神につまずかないよう努めつつ人生を送ります。イエスは、つまずかない者はさいわいだと約束されたからです。」 いつどのようにしてほしいという求めに神が応じて下さらない時、あなたはある選択を下さなければなりません。あきらめてやめてしまうか、それとも辛抱強くしがみつくかのどちらかです。投げ出してしまうこともできれば、祈り続けることもできます。神に失望することもできれば、つまずくことなく生きようと決めることもできます。
私の友人たちはつまずかずに生きることを選びました。「イエスは、ご自分が他の人に色々な良いことを起こされている時に、私たちがつまずかないならさいわいであると約束されました。それに、イエスが彼らにそのようにされるなら、私たちにも同じことをして下さるかもしれません。私には神が色々な物事をなされる理由がわかりませんが、それでも祈らなかった祈りは全く答えられないということはわかっています。」 祈りや人生についてそういう考え方をするのは、とてもいいことだと思います。つまり、祈らない祈りは全く答えられないのだという風に。—マーク・バターソン1 thecirclemaker.com.
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主がいかに私たちの人生に働きかけ、物事を起こされるかは、私たちにとって理解し難いことがよくあります。しばしば神秘的で、時に身を低くさせられるような経験であり、しかも主の時刻表は私たちのそれとは大きく異なるため、それには信仰や忍耐を要します。イエスのために生き、イエスに従い、イエスの御心や御仕事を行うには、信仰や信頼や謙遜さが必要です。自分ではなく、イエスが主導権を握っておられるからです。私たちはイエスが最善をご存知で、万事を素晴らしく行われ、また主の優先順序は私たちのそれとは大きく異なり、ずっと長期的で「全体像」を踏まえたものであることを、絶えず自分に思い起こさなければなりません。
「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えてくださるためである」2ヨハネ 15:16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなた がたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためであ る。などの、主のありとあらゆる素晴らしい約束があるにもかかわらず、私たちには自分の分を果たすことはできても、物事の采配を握っているわけではないことを思い起こさなければなりません。過去と現在と将来全体を一望できる目を持ち、永遠という時間の主要な計画を握っているのは私たちではありません。主は私たちが自在に用いることのできる霊の道具を与えられました。そして、私たちは主の約束を要求して自分の分を果たすことができます。けれども、結局、なされるべきなのは主の御心です。主こそが主導権を握っていて、最善をご存知の方なのです。
ですから、主にあって謙虚な態度を保ち、ひたすら信頼し続けることは大切です。さもないと、物事が自分の望み通りに、あるいは必死に祈った通りに行かない場合、非常に多くの疑問に悩まされるかもしれません。—マリア・フォンテーン
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何もかもがうまくいかず、なぜわたしが答や助けを与えないのだろうと思うような状況や、まるでわたしが自分の言葉の中で約束したことを果たしていないかのように見える状況においても、美しく、素晴らしく、満足感や励ましを与えてくれるような物の見方は数多くある。しかし結局のところ、それらすべては信仰に帰結するのだ。
強い信仰を持つには、それは試みられ、精錬され、清められなければならない。試み、精錬、清めはつらい。非常に耐え難く、理解し難く、受け入れ難い。
わたしは公正な神であり、自分の約束を果たす。わたしは忠実な神だ。しかしわたしの道はあなたがたの道よりもはるかに高い。3イザヤ 55:9 天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。あなたがたは即座の答や目に見える成果を求めるが、わたしはほぼ必ずといっていいほど、より深遠で尊く永続的なものを、もっと時間がかかるような物事を求める。—イエス、預言で語る
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さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。 昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。
信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。
信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。
信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。
信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。
信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。
これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。
信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。
信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。
信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。
信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。
信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。
信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過越を行い血を塗った。
信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ。
信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。
信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。
このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。
女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、 (この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。
さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。—ヘブル11章
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あなたが今通っている試練や、将来通るであろうつらい時期を乗り越えさせるために、わたしが与えることのできる「秘密の答」などというものはない。しかし信仰こそが、つまり決して投げ出したりあきらめたりしないだけの信仰が、あなたを乗り越えさせてくれるだろう。
自分が大いなる信仰の持ち主であるとか、霊的な巨人であるかのように感じる必要はない。周りの状況がどのように見えようと、あくまで確信をつらぬき、わたしの言葉という錨にしがみつくだけでいい。そうすれば、ゆくゆくは約束された報酬を受け取るだろう。—イエス、預言で語る

                     Copyright © 2012 The Family International.

作成者: イエス様はあなたを愛して居られます!

広島市に落とされた原爆の日、私は11歳で、山を越えた瀬戸内海の島で強烈な閃光を受けました。後日アメリカから多くの宣教師が来日し、イエス様はアメリカの神と強く拒絶し、聖書を避けておりました。55才の時一晩で信者になりました。

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